guldeenのはてブロ

まとめて言及したい記事を書く際に、ここを使う予定です。

はてなブログは4周年! とのことで

ども、guldeenです。こちら・はてなブログの方の更新は、すっかりご無沙汰になっておりましたm(_ _)m

さて表題にもありますように、はてなの新規ブログサービスが4周年記念ということで、キャンペーンに応募するお題の

「4年間で変わったこと、変わらないこと」

について、3つほど綴ってみたいと思います。


[親戚が増えた]

きょうだい夫婦に娘が生まれた事で、伯父となりました。出産直後のサルのような(失礼!)写メを送って来られた時は「あ、産まれたんだ」くらいの感情でしたが、里帰りで連れてくる度にすくすくと育つその姿を見ると、子育てって大変ながらも「手応えのある行為」なんだな、という感想を持つに至りました。
それにしても、ウェブで見聞きしてた『子供のアンパンマン好き』は、彼女でもやはり鉄板だなー。

[父がボケた]

さてその「孫ができた」はずの我が父と母ですが、ちょうどそれと前後する形で、父が認知症を発症した事が判明しました…。
たとえば、トイレを終えた後の電灯の消忘れなどは今までもあったものの、しばらくはパソコンで囲碁を打ったりメールで旧友と連絡を取り合ったり、晴れた日には貸し農園でミニトマトを栽培したりと悠々自適の生活だったのですが、しだいにそれらに関心を示さなくなり、母いわく(理由は次節で後述)明らかに『尋常ではない』反応をテレビ番組の鑑賞中に示したことがきっかけとなって、大学病院へ連れて行き精密検査を受けさせた結果、認知症の典型症状を示したとのこと。

思い当たる原因としてですが、還暦まで至る長年の喫煙(現在は禁煙)や、現在も欠かさない晩酌としての缶ビール(アルミ缶がアルツハイマー認知症の遠因とも言われますが)などが挙げられます。いずれにせよCTスキャンなどによって、『側頭葉』などの部位にダメージがある事は判明しています。

それ以降、アリセプトなどを毎日服用させる必要があるのに、ここ1年は服薬を嫌うようになったのに加えて、
・入浴や歯磨きをサボる
・今日の日付を思い出せない
・ガスレンジに火を掛けた事を忘れる
・電話を『番号を見ながら』ですら掛けられない
・とうぜん、券売機で切符が買えない
・たまに、私が誰であるかを忘れる(!)
・そしてついに「自分の名前を書く事が困難」になる
…といった症状が目立つなど、介護自立支援の指標でいうと『Ⅱb』と『Ⅲa』の境目にいる状況です。この調子だと、父は果たしてあと何年持つのだろう…と、母とは溜息混じりに語り合う毎日を過ごしております。

[和歌山から大阪に舞い戻る]

もともと、私は大阪市での生活が長い人です。会社員時代の父の転勤に伴う引越しはあったものの、それは小四~中一の間だけで、以後は一貫して大阪市内で暮らしてきました。
転機となったのは2004年のことで、ちょうどニート期間を過ぎても職に恵まれず、家庭内部の空気がギスギスしていた頃。ウェブで色々と打開策を調べていた処に、地方部での就労・いわゆる「Iターン」募集がある事を知りました。
その後は大阪市内での各地方事務所の案内・そして各県の就労団体の募集や説明会に参加し、最終的には和歌山市での県の各森林組合の合同募集受付へ応募・各種講習を経て、配属されるに至りました。
じつは私にとって、これが人生初の独り暮らし体験(ときに、34歳)でもあったあたり、世間一般に比べるとえらく遅い一人立ちな事を感じました。

その後は、まったくの初挑戦づくしな林業の作業や山地移動に悪戦苦闘した訳ですが、刈払機やチェーンソーなどの運用研修が随時入るとはいえ、斜面で刃物を使ったり巨木を倒す関係上、安全確保という点では何度かヒヤヒヤしたのを覚えています。
やがて、体力面ほか「周囲とのコミュニケーション」に色々な点で難を感じた結果、わずか2年という短い期間ですが林業生活に別れを告げる事を決意しました。

この時点(2006年夏)で大阪に戻る選択肢も勿論あったのですが、両親にはなかなかそれを言い出せず、なかば惰性の形で隣接する紀伊田辺市内に居着きながら仕事探しを行い、結果としては観光産業が豊富な南紀白浜温泉での観光写真業にありつく事となりました。

ただ、ここでの仕事はそれほど時給が良いわけでもなく、ハッキリ言えば『腰掛け』のつもりでした。しかしそこそこの忙しさにかまけていた故に『ズルズルと』数年間も続き、また年齢もいつしか不惑を越え、四季を通して風光明媚な光景の中で景色とは裏腹に自分は悶々と過ごす日々を送る事となります。

そんな中、自分としては近年増えつつある中国人観光客への対応などを進めていた今年の春先の折りのこと、当地を訪れた某団体客へのアプローチに失敗したことが偶然にも悪い形で話がこじれる結果となり(この辺り、諸方面への配慮ゆえに詳しく書けませんのでお察し下さい)、事態を重く見た上司との協議した末に退職(なお、一時金無し)と相成ったわけです。

かくして、実に11年間に渡る和歌山での独り暮らしを終えての大阪への帰還は、最初の頃同様にスカンピン・のみならずトシだけは徒らに食った、まさしく『ワープア中年』としてのものでした。
ただ同時に、それは『認知症となり、余生も恐らくあと僅か』な父との対面の日々の始まりでもあった事を、ほどなくして自分は知るのです。
すでに『5歳児なみ』の判断能力しか残っていない父を、どうにかなだめ・すかしつつの毎日は、かつて母が我々兄弟らをそうしたであろうレベルの面倒くささではありますが、自分にとってはせっかくの『最後の親孝行』だと割り切り、接しております。


いやー、気付けばかなりの文量になってしまいましたね。父が後期高齢者になる前にボケ始めたのは、我が家にとっては計算外の事態でしたし、なにより私自身の次の職も現時点ではまだ決まっていない状況です。
が、何にせよ「Life goes on」・人生は生きる限り続いていくわけですし、立ち止まらずに進み続ける姿勢を保つことは、だいじ。