guldeenのはてブロ

まとめて言及したい記事を書く際に、ここを使う予定です。

親父のこと

【おことわり:この記事は2020年4月に終了した『はてなグループ日記』サービスに掲載されていたものの再録です】

よくよく考えれば、父のことは断片的にしか触れてこなかった気がする。『厳父』という言葉はすでに死語になって久しいが、俺が小さい頃の父はまさしくそういうイメージだった。
俺の父は昭和15年(1940年)の初夏、鹿児島県の東半分・大隅半島で産まれた。ともに何人かきょうだいが居たはずだが、俺は聞きそびれた。なお、姉(私から見れば伯母)は存命である。父の父は軍医だったが、南方戦線への帯同の際にビルマ(現ミャンマー)で負傷兵の救護所への爆撃で命を落とした。ゆえに子供時代の父(や伯母)は、高校教師である母の手で育てられた。
しかしその彼女も我が父が高校生の頃に病で倒れ、以後の父達きょうだいは親戚を『たらい回し』にされたようである。ただそれ以外でも、本家などを合わせた親戚一同が鹿児島に居た事で大学の学費は奨学金でどうにか賄えた(※当時の国立大学の学費は、現在の水準より遥かに安かった)ようである。
ちなみに父は、俺たちきょうだいが幼い頃には自らの出身高校(進学校)や大学をやたらと引き合いに出し、「だから、お前らもガンバレ」と叱咤激励するのが常であったが、俺にとってはウザい事この上無かった思い出しか無い。
大学を卒業した後の父は、昭和40年代当時は日本の花形産業のひとつであった繊維産業企業の愛知にある工場に着任する。その時、山陰からの集団就職組に属していた私の母と出会い、やがて家庭を持つに至った。時に、父30歳・母25歳の頃のことである。その後の父は富山・大阪本社・富山・大阪・インドネシア・高知・姫路と転勤を繰り返していった。ただその際、海外赴任は別にして、昭和も末期になると繊維産業は全体的に斜陽となり『工場整理』・つまり(本来の意味での)リストラのために赴任するという、当初の当人の意気込みとはいささか異なる任務が続く事となる。特に昭和60(1985)年から丸3年のインドネシア・スラバヤへの技術指導員として赴任した際は、それこそ「全く現地語を知らない」状況でのもので、まして当時は現在のようにインターネットがあるわけでもなく、現地の事を調べるには大変な苦労があったであろう事は想像に難くない。そして還暦の声が近くなった頃、会社側の計らいによる『出向』という名の片道切符で、梅田の運送会社の配車係をしばらく勤め、平成16年(2004年・64歳)に悠々自適の身となった。

…と、ここでハッピーリタイヤとなるハズだったのが、今から思うと2009年前後から、それまでは好きだった俳句や盆栽・栽培などの園芸や版画などへの興味を失い、徐々に辻褄の合わない言動が目立ち始めるようになる。認知症を発症し始めたのだ。
もっとも、思い当たる兆候は幾つもあった。父は60代までかなりのヘビースモーカー(銘柄はセブンスター・60代の数年間はマイルドセブンに切替え)であり、かつビール好きであった。70代に入ってからたばこは『吸えなくなった』ものの、それでもしばらくのうちは酒量は衰えず、一回の晩酌で発泡酒500ml+350mlを飲む事が珍しくなかった。これらの相乗効果が、やがて脳の微細な血管の硬化や血栓の形成を招き、側頭葉(※言葉を聞いて解釈・理解する部位)へのダメージから認知症へ至ったのではないか、と俺と母は推測している。
ちなみにこの時点で、俺を含めたきょうだい3人は全員、実家である大阪を離れている。また、母は2017年まで外勤め続きであった。そのため、母が退職後の父の認知症の発症に気づくのが、やや遅れた面は否めない。
父の発症を確信する出来事が発生したのは、2011年春に発生した東日本大震災を伝えるテレビ画面を、父母が見ていた時の事であった。画面には悲惨な光景が写し出され、普通の感性の人であれば目を覆ったり・または言葉を失うようなところで、母曰く「まるで、お笑い芸人が転んだりした時の客席のような反応」を父は示したのだとか。これにはさすがにギョッとした母は、父をムリヤリに病院へ連れていったところ『長谷川式検査』や『時計描画テスト』(いずれも認知症の症状をチェックする有名な検査)を、父はクリアできなかった。
折しも「望んだ事は最悪のタイミングでやってくる」とはよく言ったもので、2年後には俺に『姪』ができた。父に(そして母に)とっては、長らく望んでいた初孫である。が、残念ながら今の父には、その小さい娘の写真が自分の孫で関東に住んでいる、という事をどうも理解していないフシがあるのが悲しい。
余談になるが、父がマトモな頃は格言の類いが好きであった。えてしてそういうタイプは『説教好き』でもある。いわく、『馬を泉に連れてはいけるが、水を飲むかどうかは馬次第だ』、『他人よりまず我が身を律せよ』・『下手な考え休むに似たり』『ひとに迷惑を掛けない大人になれ』など。
しかしそれが認知症の現在の父自身に見事に当てはまってるという状況は、なんとも壮大なブーメランというか皮肉であるとしか言いようがない。

【付記】
2023年2月8日昼、居室で横たわる父を母と見舞い、父の耳元で二言三言語り掛けて去ったしばらくのち、施設から父が没した連絡が入りました。